ワン・セカンド 永遠の24フレーム

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これは中国文革の時代に、わずか一秒だけ映っている娘の姿を観るために脱走した男の話。


私にとっては、一枚の写真が大切だった頃を思い起こさせてくれた映画でした。かつて、写真という一枚の「記録」に、溢れんばかりの「記憶」を詰め込んでいた時代がありましたよね。


終盤、彼は娘が写っている唯一のフィルムを奪われ失います。激しく抵抗し取り返そうとする渇望感。大量複製と保存が容易に出来ず、「失くす」ことの意味が今とは大きく違ったことを思い起こさせてくれました。記録を失くすことが、ひとつのドラマを紡ぐ時代がありました。


ラストシーン 大切な記録を失くしたことが必ずしも喪失ではなく、次への一歩を促してるようで印象的でした。

#東座 #塩尻

MISS ミス・フランスになりたい!

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素晴らしかった!オネェ必見ずら

 

「人に合わせる必要はない。社会のルールにも。もて遊べばいい。優勝したいならね」
▼頑迷な文化に女性が抵抗しながらも、社会と共生する術を「もて遊ぶ」と表現した背景を考えると奥が深い。抑圧とリベレーションおよび共生の最適解は、ゆるく分断された集団間における程良いつばぜり合いだろうか?

 

「選ぶのは視聴者でしょ?」
「何者かになりたい!? なれないわね!」
▼過去10年間のLGBT活動は電通的手法が強く、好意的な“アライ(支持者)“の獲得を最優先にしている。これは、この時の主人公が視聴者へのアピールを最優先させて本来の目的を見失ったように、運動の本質を見失っていると思う。それに対する批判のようで痛快


やはりウーマンリブは私の心に響く。
これをお話会でネタにしたら2時間は話せそうw

#東座 ♯塩尻

祈りのもとで 脱同性愛運動がもたらしたもの

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この映画は脱・同性愛運動と、そこで行われている転向療法(Conversion Therapy)について描かれたドキュメンタリーです。転向療法とは、LGBTQをストレートに変えようと試みる拷問です。

 

さて本作では、脱・同性愛運動のリーダーがLGBTQである者に焦点を当てました。リーダーだった一人は「私は(転向しても)同性に興味が無いフリをして行動を変えただけで、私自身は何も変わっていなかった」と告白しています。

 

しかし、自分の魂をすり減らしてまで転向した彼らは、転向しないLGBTQを攻撃し始めます。それは、教会を中心にした社会に対し踏み絵を踏んで見せる行為であり、時にそれは称賛され広告塔としても利用されたのです。結果、更なる転向療法の実施を招いて多くのLGBTQを傷つけ、時には死に追いやってしまいました。脱・同性愛団体理事長との直接対決で、元メンバーの発した言葉が胸に突き刺さります。

 

「何人もの子供達が命を絶ちました。どんなに努力をしても『まだ足りない』と言われ、『そのままでは(生命として)美しくない』と言われ続けました。」

 

先の対決では、批判する側もされる側も涙する姿は悲劇以外のなにものでもありません。それでもまだ、米国において過半数の州で未成年に対する転向療法は合法です。「同性愛は病気で治すことができる」という米国文化に根差す信念(belief)が変わらない限り悲劇は繰り返されると言って本作は終わります。

 

私は80年代後半にテネシー州に1年間交換留学生として滞在した経験があります。当時のDeep Southでの景色は正にこの映画のとおりでした。実際、クラスメートの女の子から、教会が発行していた転向療法のパンフレットを貰いましたしね。大学自体は裕福でリベラルな私立大学だったのですが、そこで学ぶ人の中には保守的な学生も多かったし、全米の傾向としてもまだまだゲイを社会が受け入れる時代ではありませんでした。

 

あれから30年ほどの月日が流れていますが、Neflixの「コルトン・アンダーウッドのカミングアウト」では、米国社会が大きく変わった面と、まだまだである面の双方が見て取れます。元NFL選手で敬虔なカトリック教徒でもあるコルトンのカミングアウトには、正に血の滲むような経験が映し出されていて涙なしには視れませんでした。

 

それでも、30年前では望むべくもなかった家族や幼馴染からのサポート、同じ境遇の者たちとのネットワークづくりなど明るい材料も数多く示されていました。本作品とあわせて観ると、この問題を多面的に考える切欠になると思います。

アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド

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予告編を見る限り ラブロマンスっぽい感じ。劇中のアンドロイドは、ドイツ女性の憧れを具現化した機械。でも、不完全な男に魅かれる私にはピンとこないw


思い出したのは絵本「ぼくをさがしに」。「ぼく」は自分に欠けているピースを探す旅にでます。最後に、自分にピッタリのカケラを見つけますが。。。というお話。パートナー探しの旅を(長年)続けている私は、自分にピッタリのカケラを見つけることが出来るのでしょうか?見つけたとき私は幸せなのでしょうか?

 

ところで、私たちは既に劇中のアンドロイドに似たパートナーと共生しています。その正体はGAFA。彼らは、ネット検索・サーフィンというコミュニケーションから「最適なオススメ」を提供してくれます。


しかし一方で、これはプライバシー保護の問題を抱えています。ハンサムなアンドロイドもネットに繋がっており、誰かに監視されているのです(映画ではスルー)。昨晩ケンカしたこともセックスしたことも筒抜けです。

 

それなのに、主人公と同じようにアンドロイドを提供された男性は「私の孤独を癒してくれるのは彼女だけだ!最高だ!」と泣くように叫びます。私には一番背筋が凍ったシーンでした。


劇中で次々と繰り出される「オススメ」は、最適化されるほどディストピア感が私には強まりましたが、そんな天邪鬼は私くらいでしょうか(笑)

#東座 ♯塩尻

ファッションが教えてくれること

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ヴォーグ誌の編集長アナ・ウィンターに迫ったドキュメンタリー。「プラダを着た悪魔」を彷彿とさせるが、原作者は否定してるとかw


とっても素敵な映画でした。最近ちょっとLGBTQ+ネタが多くて食傷気味だったし(Ooops!!) たまには華やかでエネルギッシュな映画も良いわねw
心に残った話は二つ

 

①彼女の父親が、まだ仕事に情熱を持っていたのに引退した理由を尋ねたら、「I get too angy」と答えたという話。彼女も「仕事をしていて腹が立つことはある。それが抑えきれなくなったら私も引退するときね」と言ってた。これは、自分にとっては衝撃的だった。私なんて怒りを糧にして運動をしてきたから。エイズ・サポート活動のときも、松本市の同性パートナーシップ宣誓制度の延期を主張したときも。でも、怒ることに疲れていたのも確か。自分の生き方として何か調整が必要だとは常に感じていた。仕事が上手くいってなくても彼女はフラストレーションに飲み込まれない。すぐ的確な指示をだしていく。彼女の中には確固たる何かがある。だから怒りでブレたりはしない。それは、ある種の凄みのようでもあった。「怒りは糧にならない」ー とても重要なことを学んだ気がする。

 

②「ファッションは過去を振り返らない。常に前を向く」というアナの言葉。私たちは過去と同じ未来を生きることはない。人類の歴史でもそうだし、個人の人生でもそう。でも、どう異なる明日をつくるかは今日の生き方にかかっている(これは谷川俊太郎の詩「明日」の受け売りだけどw)。アナや他のスタッフの猛烈ぶりをみていると「わたしも明日のために、もうチョット頑張ろ」って信州の片隅で思ったりするw いろいろと元気がでる映画だった。

ユンヒヘ

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この映画を観たいと思ったのは、主演女優の3分にも及ぶ韓国語の長台詞をネットで発見したからです。意味は分からなかったけど、情愛の埋み火を見た気がして心がザワツキました。映画鑑賞前にオススメです https://youtu.be/s5gn7sslsqI


映画は、思春期に韓国で恋に落ちた二人のレズビアンのお話。20年後、ユンヒは家族から「女」であることを理由に抑圧され、同性愛者としても抑圧され、今はシングルマザーとして生きていました。一方、韓国から小樽へ渡ったジュンは、結婚を拒みレズビアンであることも隠して独り日々を送っていました


二度と交わらないように思われた二人の人生でしたが、ジュンの叔母が彼女の手紙を無断でユンヒへ送ったことから歯車が回り始めます。仕事を辞めてまで小樽を訪れる決心をしたユンヒは、徐々に抑えていた感情を解き放ち本来の自分を取り戻していきます。自分を見つめ直し、自分を大切にし始めたユンヒは小樽で輝きはじめます。そして再会する二人


小樽からの帰国後、ユンヒは離婚した夫の新しい門出を心から祝い、抑圧の象徴だった兄とは決別します


冒頭で紹介した長台詞は、映画の最後に字幕付きで流されます。失意の女性を救ったのは、20年を経ても消えなかった埋み火のような情愛でした。主演のキム・ヒエが素晴らしかったです。

#東座 ♯塩尻

親愛なる同志たちへ

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劇中、主人公リューダの周りには3人の男が登場します。人民のために戦った男、人民を指導(皮肉)する男、人民を監視する男。彼女は、戦地で兵士と不倫関係の末に娘を出産し、今は共産主義を維持する共産党支部の上司と不倫関係にあります。男たらしで強く魅力的な女性リューダは、自分を監視する側のKGB職員までも魅了していきます。
これほど役者がそろっていてもロマンチックな話はひとつも描かれておらず、彼女が女性として艶っぽく見える瞬間もありませんでした。先のKGB職員が、彼女に対して時折みせる「男」としての表情に、リューダが常に「女」として応えていない姿が印象的。劇中、何度も連呼される「同志」にも性別はありません。

 

なによりも色恋を優先させ、故に常に自分の色欲に振り回されて迷ってきた私には、最後まで主人公リューダの気持ちが理解できない映画でした。主義信条を信奉して突き進んでいった彼女の人生は幸せだったのでしょうか?